昭和40年10月04日 朝の御理解



 久留米の初代、石橋先生は、徳の船に乗って、この世は渡るんだという風に言うておられます。この世は徳の船に乗って渡れと仰る。徳の船というのはどういうような船であって、また、その船に乗って渡るという事は、どういうようなことであろうかと。ここに徳の船というようなものがあって、それに便乗させてもろうた。それに乗っておるということはならどういうようなことかと。
 椛目に御神縁を頂いて、まあいうなら、椛目丸なら椛目丸という船に、徳の船に乗ると。皆さんがここにご縁を頂いておる、皆んなの人がこの船に乗っておるかというと、そうではないのである。毎日日参しておるから乗っておるかというとそうでもないのである。そこんところに、自分は徳の船に乗っておるんだ、乗っていないんだということをです、一つはっきり心の中に見極めさせて貰うて。
 はあこのこういうこの船に乗ってさえおれば大丈夫だという、その大丈夫だという気持ちで信心が続けられて行きよる、私はおかげを頂かなきゃいけんと思う。その大丈夫だというて、その安心と言うですかね、安全感と言うですか、先生にお願いしてあるからどうとかなろうといったようなそう言う、そういう安易なものではないですね。例えていうなら、生きた花と、造り花とがあります。ね、
 もういつも、もう先生に、お願いしとるから、私は安心しとりますと、何時もそういうような、ふうな思いでおるならば、それは造り花だと私は思う。いつも同じだから、だからそのいかにもそれは、船に乗っておるようであってです。私は乗っているのじゃあないとこう思うですね。やはりあの、生きた花でなからなければならない。心が生きておらなければならない。
 ですからやはり痛いも感じれば、痒いも感じるという信心でなからにゃあならん。なるほどだから心配もありゃあ、不安もあるという事になるのである。けど問題はです。その心配やら不安やら、痛いやら痒いやらを感じる時にです。もういよいよ信心の、熱情というものが燃えてきて、いわゆる心配する心信心させて頂いておる、そして親先生があげん言うて下さるからという、その信心そういう信心なら、こりゃまず徳の船に乗っておるというて間違いないですね。
 けどもそのの不安が心配がです、もうじっとしてはおられなくてです、いわゆるそのあれに頼りこれに頼り又はこれ、おかげは頂けるか頂けんか分からんと言う様な、そのう気持ちになってです。信心を疎かにする様であるならば、それは危ないですね、乗っておるとは言えないです。だからここで一つ分からなければならんことは、徳の船に乗っておるんだ、例えばなら総代なら総代の御用を頂いとるから、徳の船に乗っておるという事じゃあないのですよ。ね、この世は徳の船に乗って渡る。
 今朝方まあ私椛目でまあちょっとこう、指折るならば、十人ぐらいまどうにもならんところにおる人達がある。様々な難儀にゆきづまっておる人がある。この人達がおかげを受けねばなあと、こう私が思わせて頂いておったらです。ね、もうその大きな船が動きよらんごたる、例えば大きな船に乗っておる時は、あの家の中におるとと同じ様なじ、ね、実感がその船に乗っておるという実感よりも、家の中におるような感じがするですね。そう言う様な感じで船が。
 はぁその動いておる動いておらんかは分からんけれども、その人達の目的に向かってその船がこうやってその回ったり動いたりしておると言う様な、状況を頂くんです。まあおかげを受けなければならんな。どうでも一つおかげを頂かなければならん。もう本当にいうなら切羽詰ったその人と、難儀というものを銘々抱えて、あそこ一つ切り抜けるおかげを受けなきゃならんなと言う様な事を思わせて頂いた。
 ですからそういう人達がです、そういう徳の船に乗らせて頂いておるんだという、私は実感から離れたら私は、まいうなら受けあいは出来ませんけれども、徳の船に乗っておるんだという私は気持ちで信心が、そりゃあ不安でもある心配でもある。けれども先生は、まあ神様任せになって下さいという、と言うて下さる。だから心配だから一生懸命信心させて頂いておるというのなら、是はまず徳の船に乗っておるわけです。
 けれどもその人達がです、ね、あれに頼りこれに頼りしてです、そこんところの信心のね、修行の精神というか、熱情というものも無しにしておるなら、こりゃやっぱり良くない。同時になら今はいかにも平穏無事のようであってもです。椛目の徳の船に乗っておるんだということがです、いわば思うておるだけではこりゃいけん。ね、そりゃあ、ま造り花にも等しいようなもんである。ね、枯れもしなければその代りにまたより見事に咲いていったり、その代わりしおれると言う事もない。ね。
私共は日々信心の、ま稽古をさせて頂いて、生きた信心というかね、おかげを頂いていかなければならん。例えばなら花なら花が入れてある。いつも瑞々しゅうはしとらん。昨日までは瑞々しゅうしとったけれども今日はもう枯れておる。ならこれは水を替えなきゃいけんのだなというて水を替える。水を替えただけでもいけんのなら、次にまた次の花と取り替えていかなければならないようにですね。
 私共のその心の花、心の生きた花というものがですね、やはり咲いたりつぼんだり、ね、またはみずみずしゅうしておるという、そういう信心であって、その徳の船に乗らせて頂いておるのであり、それならば、皆さんの願い以上のところへ神様が私共を徳の船に乗っ、この、乗せておって下さり、運んで下さっておるんだということを、私は思うです。ね。先生にお願いしとるとじゃから、どげんかなろうと、いうような信心は、あまりもの信心だとこう思う。
 というてどういう難儀があってもです。ね、どういうような難儀を感じてもです、難儀があればあるほど神様に心が、が打ち向こうておるならば、それは徳の船に乗っておるのですから心配はいりません。けどもその心配になるから、なら回れ右をしてからあちらに頼みこちらに願いして、その迷うておるならば、そりゃ徳の船に乗っておるとはいえない。この世は徳の船に乗って渡れと。私は徳の船に乗って渡るという事は、そういうようなことだとこう思うですね。
 私は例えば、石橋先生がお徳を受けられて、ご自身が徳の船に乗って、いつもご自身の事だと、こう私は思うておった。ところが石橋先生の頂いておる、いわゆる石橋丸なら石橋丸という船に、乗っておる人達がです。例えば今日申しますような、船に乗って渡っておる人もあれば、そのそこにご縁を頂きながら、ね、船には乗っておらずにいわば信心から転落していく、おかげからを頂きそこのうていく。
 いや自分はもう、おかげ頂いておる者のように思うて、もう椛目にご縁を頂いておるからとか、石橋先生の、石橋丸に乗っておるからというてです。のほほんとしておったところが、どっこい実際は乗ってなかったら、まあ如何にも乗っておる様であっても、それは造り花であったと言った様な信心であってはならない。
 いつも自分の心に難儀があればあるほど神様へ打ち、打ち向かう心が強うなっておるというのであって。徳の船に乗っておるのであり、かというてほんならいつもかつも、難儀を感じておるわけでは、ようなことではやはり、おかげを受けておるというのがです。おかげの実感というものが、瑞々しい信心のまあ喜び感、または信心の、修行の熱情というものが、私の心にあるならば、私自分のそういうであってもです。
 矢張り花が取り替えられて行かなければならない様に、萎れておったり枯れておったり。痛い痒いを感じない筈はないのである。その都度にそれが次の信心に、生き生きした物に、いわゆる日に日にさらの信心によって、それが生けかえられて行きよるという信心であって、初めて徳の船に乗っておると言う事がいえるのじゃないかと私は思うですね。
   どうぞ。